第3回 春を迎えた高校時代

※サムネイルの写真と本文は、全く関係ありません。

何も考えず適当に選んだのは、埼玉県立所沢北高校。当時住んでいた最寄り駅からは、路線のアクセスがとても悪く、定期を四枚も持ち歩いていた。

そんな場所でもあり、元の中学校からは三人程しか通っておらず、ほぼまわりは全員知らない人という環境で高校生活が始まった。

中学時代の後半が上り調子だったのもあり、知り合いもいない中、クラスの空気を明るくする良い感じのポジションでスタートできた。

と、思ったのも束の間。入学から数週間後に大事件が起きる。

放課後、いつものノリで、自分のビニール傘に落書きして盛り上がるという謎のイベントを催していた。

帰りの電車、その傘を持って乗り込むと、中学校時代の先輩が乗ってきて声をかけてくれた。

しばらく何気ない会話で盛り上がっていると、とある駅で先輩の女友達が数名乗り込んできて、先輩は隣の席から立ち上がり「ちょっくら挨拶してくるわ。」と、彼女たちたちの元に向かった。

特に何も考えず、ふと先輩と彼女たちを見ると、あからさまに怪訝な顔つきでこちらを見ている。

「何あの子、確か同じ中学の後輩だよね、何あの傘、気持ち悪。」と自分への悪口が聞こえてきたのだ。それもショックではあったのだが、先程まで一緒に会話していた先輩も「だよなー。」と話を合わせた事に、角材で殴られたような衝撃を受けたのだ。

途端にいたたまれなくなり、同じ駅で降りるのも怖く、数駅手前の駅で、あたかも何かの用事を思いついたかのように降り「ああ、俺はこういう事しちゃいけないんだ。気持ち悪いんだ。俺だけが気づいて無かったんだ。」と、数駅の距離を、雨のなか傘もさせずに歩いて帰った。

その次の日から、自分と一緒に盛り上がってくれていたクラスメイトに対しても「裏では何を考えているのか」と懐疑的になり、そこから誰とも口を聞かなくなってしまった。

スラムダンクに憧れ選んだバスケ部では、慣れないルールや練習メニューを周りに聞く事もできずに、すぐに辞めてしまった。

勇気を出して立候補した生徒会も、当選はしたが、笑い声が聞こえる生徒会室に入る勇気が出ず、ドアの前で引き返す日々が続いた。

夏前には、朝に家を出ては色々な駅をふらふらする不登校状態に突入。高校に行ったり行かなかったりを繰り返して、高一の欠席日数はトータルで百日を超えた。

転機は、高二の六月ころ、横浜遠足の班決めだった。

未だに思うが、好きな人同士で班を作るというものほど残酷なものは無い。随所でワイワイ班決めしている中で、自分と同じ境遇の数名は席すら立たず、我関せずと教科書を開いたりしている。

その時、サッカー部のイケメンで有名な坂本くんが声をかけてきた。「一緒の班になろうよ。」
これが高校時代最大の転機となった。

遠足当日、班の中でもキャラを見失っているため、笑いを取ろうとしては、単なる奇怪な行動になってしまうという噛み合わなさぶりを発揮し、坂本君以外のメンバーから本気で嫌われていたらしい。

ただ、記憶が全く無いのだが、何故か帰り際に、車椅子のお年寄りに近づき案内をしてあげたらしいのだ。それを見ていたメンバーは、意外な私の一面に溜飲を下げてくれたのだという。帰りの電車ではみんなが優しく話しかけてくれるようになっていた。

この遠足の後、、学校には毎日通うようになった。

美術の時間が好きだった。担当の先生が、常識を外れた表現に理解があり、私の作るものを面白がってくれていたのだ。

春から始まった課題は、胸像デッサンだった。大きなキャンパスに好きに描ける時間、隣にいつも気になる二人の女子がいた。

ものすごい大柄でパーマをかけるから更に威圧感がマシマシになっている女子と、ものすごい小柄でそこまで美人というわけではないが凛とした色白の女子。そのコントラストがいつも目に入り、気になり続けていた。

小さな色白の子が気になる理由はもう一つあった。小さく華奢な身体とは正反対に、ダイナミックに描き上げていく豪快なデッサンは、過程を見ているだけで関心しきりだったのだ。

人見さん。

彼女は、わたしと同じ生徒会役員でもあった。

ほんの少しでも居場所ができるだけで、時間は矢のように過ぎていく。そして、あっという間に夏休みになった。

夏休みに文化祭で行うクラスの企画を決める会議があった。クラスの中心メンバーには程遠かったが、生徒会役員だからという理由で、私もその会議に呼ばれたのだ。

昼ごろ教室に行くと、人見さんだけが先に来ていた。特に気まずくなるほども女子として意識してない子だったので、生徒会の話など、たわいも無い会話をしていたが、全然他の連中がやってこない。約束の時間を1時間ほど過ぎたあたりで、人見さんはぷらぷら街歩きするのが好き、海に行ったことがほぼ記憶に無いという話になった。

高一時代にひたすら街歩きをし続けた経験からか「じゃあ今から海行ってみる?」と何気無く話すと「うん!」とまさかの返事。

所沢から湘南は、ナカナカな距離がある。

湘南に着いた頃には、すでに陽が傾きかけていた。

「ちょっと家に電話してくる!」というので公衆電話近くで待っていると「…うん。だから今日は泊まってくる。」と聞こえてきた。

それまで特に、何も考えていなかった私は、一気にパニック状態に陥る。

と、泊まる…?

ここまで一切気にも止めていなかった人見さんが、急に女子に見えてくる。高鳴る鼓動、深まる妄想。

何も聞こえなかったふりをしつつ、江ノ島に着いた時には、完全に真っ暗な闇夜になっていた。

夜の海は、ただただ何も見えず、怖い。更に夏の湘南は、治安も悪い。ひっきりなしにバイクの音や、やばそげな高笑い声が聞こえてくる。

なるべく明るい通りを選んで歩いていると、通り沿いには煌々とネオンに彩られたラブホテルが軒を連ねている。

と、泊まる…。

夏の蒸し暑さと、やばそうな人たちへの警戒と、朝からの激しい移動でそれでなくても頭がおかしくなっている。

しかし「肥満児陰子」の自分には、女子をホテルに誘う勇気など毛頭無く、この先どこに向かえば良いのか検討もつかず、二人とも無言で海外線の歩道をぶらつく。

そんな時だった。

いちなり激しい雷鳴と共に、ゲリラ豪雨がやってきたのだ。二人で叫びながら近くの公衆ボックスに逃げ込む。

激しい豪雨。びしょ濡れの二人。マックスの疲労。狭いボックス内では半袖の制服から伸びる腕が時折触れ合う。身長差から目の前にある彼女の髪の甘い匂いに思考回路が飛びそうになる。

タイムマシンがあれば、この時に戻り、一通りのお膳立てしてやりたいが、流石ここまでの人生を歩んだ私、なんと結局次の朝まで江ノ島周辺を練り歩き続けるのである。とんでもない奴だといまだに思う。

湘南の町に朝日が差し込むころには、風邪をひき、発熱し始めるという体たらくぶりをいかんなく発揮。

公園のベンチで始発まで人見さんに膝まくらしてもらえたご褒美はあったが、リアルに発熱していてよく覚えていない。人生初のデートはこうして幕を閉じた。

その日から、どちらともなく二人は付き合い始める。人生初の彼女である。

後でわかったのだが、人見さんも美術のデッサンで、已己巳己の表現を好きでいてくれたらしい。「絵で結ばれるなんて、これは運命的!」などと初々しく思っていたのもいい思い出だ。

夏休み明けの私は、最早、別人である。彼女という存在は、自分の存在を認めてくれていると自覚できる唯一無二の存在なのだ。普段の生活も自信に満ち溢れ、環境は一変し始める。

高三になると「俺、高橋と同じクラスになりたかったんだよ。」「高橋、バンドでギターやらない?」など、更に好循環は続き、高二の遠足で私に舌打ちしていたクラスメイトは、已己巳己にいじられると謎に喜ぶというレベルまで立場が完全にひっくり返ってしまった。

彼女、クラス、生徒会、バンドにバイト。それはもう、今思い返しても、完璧な青春時代。全てが夢の中のような、楽しい日々。

特に思い出にあるのは、とある夏の日。学校の屋上に、生徒会特権で持っていた鍵を使い忍び込む。夏の太陽が降り注ぐ中、彼女と、生徒会メンバーで水鉄砲をしたり、ランチを食べたり。ここにいる全員が、自分を受け入れてくれている。青春を絵にしたらこんな風景になるのかな、と感じるような一日だった。

しかし、そんな日々は長続きしない。

いつものように朝、学校へ行こうとすると、親のベッドルームに仕事中であるはずの父がいた。ドアに背中を向け、猫背にうつむいている。一切飲めないはずの父親が、日本酒の一升瓶を抱えていた。

幸せな日々など、終わりを告げるのもまた早い。

父は、早くに祖父を亡くし、高卒から愚直に続けてきたトラックドライバーという仕事に、長年溜め込んだ不満があったようで、私が高一の時、いきなり数十年勤務した会社を辞めて独立してしまった。同じ会社だった仲間と起業したのだ。

そしてたった二年で経営は傾き、連帯保証人だった父は数千万円の大借金を抱えていた。小さなボロ家を売り、亡くなった祖母の実家に引っ越していたが、そこも売るほか無いという。

「大変ではあるが、お前は大学には行かせる。大学に行かないとお前もこうなってしまう。」と賃貸アパートへ引っ越す最中、父親が語りかけてきた。

しかし季節はもう高三の夏。毎日が楽しく、何も考えず今を迎えた自分は、大学どころか受験の流れすら何も理解していなかった。

結局ほとんど勉強もせず迎えた、高三クリスマスの夜。芸大志望の彼女は毎日のように予備校通いだったため、帰り際に待ち合わせプレゼントを渡した。

プレゼントを見て泣いて喜ぶ彼女。幸せに陶酔する自分。泣き止むのを待っていた自分に、彼女はいきなり別れを告げる。

「あなたが何を考えてるかわからない。」

今となっては、受験期の冬にフラフラとしているだけの彼氏である。何を考えているかわからないのはごもっともで、振られるのも当たり前だと思うのだが、当時は交通事故レベルの衝撃を受け、とにかく受験とやらを済ませ大学にさえ合格すれば元に戻れるだろうと、クリスマス明けから受験勉強を始めたのである。

このクリスマスからの大学受験だけでも「受験の前日に甘栗と水道水だけで過ごした大阪甘栗事件」「センター試験直前にヨーグルトにしようとして隠しておいた牛乳が担任に見つかりしばかれる事件」などさまざまなエピソードがあるのだが、話が飛びすぎるのでここでは割愛する。

そして当たり前のように大学は全滅。更に父親は正式に破産宣告をした。

山一証券や拓銀の破綻などバブル崩壊の象徴とも言える一九九七年、高三の冬。高橋家も埼玉の片田舎で小さく崩壊した。

金も無く、目標も無い中、高校でたまたま見つけた「新聞奨学生制度」。新聞配達をしながら、予備校に通えるという内容に、お金にもなるし大学を目指してる感じも出せお得だと思い、申し込んでみた。

配属先は読売新聞渋谷東営業所。代々木ゼミナール代々木校入校。

それが、已己巳己の高校卒業後の進路となった。

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