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A面がホワイトでパブリックな世界。 上場企業社長やテレビタレント。 B面がいかがわしくて丸裸の世界。 インフルエンサーやクリエイター。 いま世の中の影響力がA面からB面に行ってる。アメリカ大統領ですらトランプのようなB面になり、起業家もB面側が勢いを増してる。 これから来るのはC面。 無宗教だけどスピリチュアル(SBNR) 物質的でも科学的でもないが信じたい教えや物語に人は救いを求める。 来年、C面の本と合宿を組み合わせたプログラムを出します。
前回、少し触れたが、これは箕輪さんが指摘するこれからの価値観である。
概ね言いたいことは已己巳己と似ているのだが、少し解釈が異なるし、これからの価値観というテーマは全ての噺に共通する根底のものだろうから、少しまとめておこうと思う。
前提とすべきは「マスの終焉」というキーワードだろう。産業革命からはじまり大量生産・大量消費による「マス化」が始まり、マスに消費喚起するための「マスメディア」が産まれ「マス広告」が出来上がった。1990年代くらいが最高潮で、テレビドラマの主題歌になった歌は、簡単に100万枚を超えるミリオンセラーとなるのが定石だった。箕輪さんのA面がこちら側なのだろうが、こちら側はもう、マスの澱のようなものが多少残っているだけで、早晩消えてなくなる。
マスを終わらせたのは、スマホと4Gである。全国どこでも、一人ひとりが、受信だけでなく発信できる権利を獲た。マスメディアに限定されていた発信という権利が、民主化されてしまったのだ。しかも、ポケベルのようなテキストだけでなく、高解像度の映像をライブで届けられるようになった。マスの時代から、メディアというものの中で圧倒的な割合を締めていたのは「ながら消費」であるから、視聴者側からすればテレビやラジオと、一般人が発信する動画に対した区分もなく、一気に視聴者がマス以外のニッチメディア側に流れ込む。これが2000年あたりから本格化したもので、箕輪さんはB面でありいかがわしくて丸裸と指摘しているが、マスメディアと違い、発信者が個人や少人数の集団に近く発信者としてのブランディング等を意識しない層が発信者であるため、Youtubeは基盤であって、その中の1ch、1chがメディアであると考えると、ほぼチャンネルごとのブランドやオーソリティを意識することなく情報を見るようになっていく。特にWEBサイトをネットサーフィンする際など、ほとんどサイトの発信者情報など見ていないのが良い例である。
A面からB面というのは、少数のマスメディアから、超多数のニッチメディアへの移行に他ならないので、マスメディアをAと置くことも、こちらがホワイトであったりパブリックであるという定義は幻想にすぎない。ただ、情報発信という既得権益が民主化され裾野が爆発的に広がっただけのことだ。認知側である視聴者側は、そこまで何か意識が変わったわけではないのだ。
ただ、そこからC面という新たな定義をしたくなる変化があるのは間違いないし、それが「物質的でも科学的でもないが信じたい教えや物語に人は救いを求める。」と定義したくなるのもなんとなくわかるが、ちょっとズレていると感じる点がある。
情報発信という既得権益が少数のマスメディアという存在を創り上げた時代、マスメディアによる情報収集が大衆の基本なわけだから、自ずと、マスメディアが発信する情報が「常識」となる。「今、女子高生の間でルーズソックスが流行っている」と発信すれば、日本全国の女子高生が履き始める。なぜか女子高生と言えば原宿・渋谷あたりを歩いている女子高生が、女子高生代表として取り上げられる。マスメディア全盛期というのは、大衆からすれば何も考えずに迎合しておけば良いだけなので、ある意味、無思考状態でいられるため、楽なのだ。
ただ、情報配信を膨大なニッチメディアが担うようになると、大衆側は寄り添えるものが無くなり自分から取捨選択をしなければ、必要な情報にたどり着かない時代となってくる。特にこれが、パンデミックという世界的有事が決定打となりシンギュラリティが起きた。DIKWのInformation部分が爆発的に増加した。情報爆発である。
企業も有名人もおしなべて権威性が排除されると、大衆側は何を基準に情報を取捨選択すれば良いのかわからない。そこで「無宗教だけどスピリチュアル(SBNR)物質的でも科学的でもないが信じたい教えや物語に人は救いを求める。」時代となるわけだ。
ただ、「無宗教だけどスピリチュアル」というのは悪いが全くの間違いである。
人工知能などに携わっていると、脳が脳のことを考えていくので、すぐに宗教的な要素が出てくる。この「宗教」というコンテキスト自体が、箕輪さん含め多くの人が定義しきれていないので小難しくなる。仏教と神道はまるで違うものだし、当たり前だが神道とキリスト教も全く異なる。これらをなんとなく「宗教」とくくっているレベルでは、これからの時代を読み解くことはできない。
「無宗教だけどスピリチュアル(SBNR)物質的でも科学的でもないが信じたい教えや物語に人は救いを求める。」
ではなく、「信者かどうかは置いておいて仏教思想が重要」ということだ。
ただ「仏教」も広い。あえて明確に置き石を置くのであれば、最澄と空海、つまり天台宗と真言宗あたりが重要と定義して学んでみると良い。已己巳己もこの2宗派の信者ではないが、唐はアジア最大規模の仏教研究の中心であり、口伝中心だった仏教が体系化されたのがこの時代である。最澄と空海は、それぞれ法華経と密教という当時2大人気だった経典を学び、日本で天台宗と真言宗を開いた。当時は、結構経典の貸し借りも多かったようで、この2つの経典というのは2つで一つだと、已己巳己的には考えている。
「人」という存在を左脳(論理)から体系化した法華経、右脳(感性)から体系化した密教。
経典の内容などはまた別で書くとして、仏教はそもそもが「人とはどういう存在か」という哲学的視点が根本にある。神道とも、キリスト教とも、全く、全然、違うものなのである。どれが良い悪いではなく、人という存在を体系化したのが仏教であるというだけの話だ。
2500年前から、人とは何か、というテーマを解き続けているのが仏教である。なので、仏教の視座から箕輪さんの指摘するC面はだいたい全て体系化できるので、宗教をまとめて定義して、宗教とかでないスピリチュアルというのは間違っているし、もったいない。すでに、答えはだいたい経典に書いてある。
このあたりの論は、日本だとあまり大ぴろげにできない空気があったが、松本紹圭さんを京都府のCIOからご紹介いただき、確信に変わった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E7%B4%B9%E5%9C%AD
大学で西洋哲学を習っても、何かしっくりこず、全ての答えは仏教にあると、仏門に入られた。ダボス会議でジュニアリーダー等も歴任した方だが、これは、彼がすごいというより(すごいけど)仏教を指針としていると世界でもこういったポジショニングをえられやすくなる、ということだ。
ここから20-30年以内に日本で大規模震災などの有事が起き、そこから5-10年で復興し、忘却曲線として神戸をみていると30年くらいでみんな忘れることを考えると、ここ60-70年くらいは仏教的視座・フレームワークによる情報社会構造になるのはおそらく結構間違いない。
全てのコンテキストが再定義される、このサイトのタイトルは適当につけたものではなく、この箕輪さんの発言一つとっても、コンテキストの定義が甘すぎるし、とても古臭い定義の枠組みを超えてない。
時代は仏教、というお噺。最澄と空海についてはまた今度じっくりとお話しようと思う。