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「ある・いる言語である日本語」「する言語の英語」と書いたら反響が多かった。知らなかった人も多いらしい。
金谷武洋著「日本語文法の謎を解く」を紹介したかったのだが、調べると廃版になっていた。
なので、特にビジネスにおいて注意すべきだろうと感じる日本語の特徴というお噺を1つ。
まず、いきなり余談なのだが、この本のレビューが相当に荒れていた。言語、とくに国語・母語というのは岡目八目そのもので、もう哲学的な要素も多分に含みはじめる。已己巳己は「日本語は構節語」「英語は構造語」と説明するが、正しい分類は日本語が膠着語で英語は屈折語に分類される。形式、分類、音、記号などなど様々な要素が言語学には含まれるが、この筆者は海外の日本語講師。已己巳己は日本の予備校講師であったから、正確性(まあそもそも未だににこれが正しいというのもないのだが)よりも認識・認知しやすい分類にしている方便である。あまり他人のレビューに左右されない方が良い。わかりやすければ良いのだ。
例えば、「話している」という表現は、「話」に、動作動詞「する」の連用形「し」が続き、接続助詞「して」があって「いる」という状態の継続を表す助動詞が続く。「いるは動詞だ!」とか言う奴は置いておく。「する」を動詞と捉えて末尾を助動詞とした方が、已己巳己のような大学受験の英語講師が高校生に日本語との対比を伝える場合はわかりやすいのだ。
「話している」は述部なので、そこに主格の助詞が加わり「已己巳己は(話している)」「已己巳己が(話している)」と主部ができあがる。この「は」や「が」は主であることを表す格助詞として教わっているはずだが、「は」と「が」は全く異なる性質を持つのだと金谷は言う。
有名な表現例の「像は、鼻が、長い」。この主部・主語は「像は」なのか「鼻が」なのかという問題。金谷は「は」はスーパー助詞であり文を超えて働く主題設定であると定義している。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。
吾輩は猫であるの冒頭で言えば、「吾輩は」は、後半の「それは」まで全ての文における主題となっているというのだ。確かに、文節を超えて作用している。
だから何なのか。つまり、日本語は「主語」ではなく「主題」をベースにした状態を風景描写化する言語形態ということだ。なので、タスクをプロセスに集積していくビジネスにおいては、とても非効率的なコミュニケーション言語を使っていることになる。
これは効率的なマネジメントに多大な影響を及ぼす。最近、出社回帰の風潮があるみたいだが、まさに風景的コミュニケーションを得意とする日本語では、特にオンラインのような個別分散型の環境というのが適さないからだと已己巳己は考えている。
で、だ。
こう書くと「言語リテラシーが大事!」となってチーム全体に「日本語教育!」となりがちだが、上記のような日本語文法リテラシーを高めても付け焼き刃では、チーム末端までの認識・認知はそう簡単に変わるものではない。
それより、コンピテンシーを高めよう。日本語の特徴を意識して、巻き込むアプローチを身につけた方がいい。
LINEだけで配下部長10名程度に送っていた日々の内容を簡単に書くとこんな感じである。
午前の速報!
東京第一は4名紹介、想定売上40万円(午前中シフト外スタッフが多く吉岡と三輪が中心にメルマガ発射でリスト化をしておくことに!)
東京第二は34名紹介、想定売上670万円(山田が無双状態、高額紹介案件Bが順調!)
大阪は88名紹介、想定売上220万円(田中が中心に午前中に定単価の条件が緩いものを攻めてほぼ満枠!)
こんな感じである。
つまり、無理せず「は」を用いた「状態」で伝える。そのほうが、周りは認知しやすい。ただその上で更に、主格の「が」を使って、動作系の情報を添えることが重要なのだ。
こうしておくと、各部長は「田中たちは・・・という状況で・・・したらしいよ、うちでもやってみる?」と、THE日本的な指示がその配下に拡散しやすくなる。あとは、できるだけ「!」とか「ありがとう」を多用しておかないと、状態動詞は情景を伝えるからCOOLすぎるし、時折出てくる動作動詞は強い表現なので、冷徹に感じやすくなることを避けられる。「(^ ^)」とかでも良いから添えておこう。
チャットやメールではなく、LINEにしたのにも意味があって、これらコメントに「キングダムのコマ」「カイジのコマ」などの画像を添えたり「呆れた顔のスタンプ」を添えたりできるのが大きく、特定の漫画を添えると特定の人物から反応が返ってきたりと、テキストだけでない非言語情報が効果を発揮することもある。こんなことを1年やり続けただけで、ギスギスした職場が末端まで感謝の手紙を書きあうまで清浄化するからコミュニケーションというのは実に面白い。高校生も社会人も、ここらへんに大きい差異は無い。
「生成AIでナチュラルな日本語ができてる!やばい!うちらの存在意義が!」とか言ってる場合ではない。「そもそも、あなたの、今の日本語はすでにどうなのか」「どういったコミュニケーションを元に、それは何を生みだしてるのか」そこを冷静に見つめ直した方が良い。
正に、岡目八目の好事例。
「日本語」、いや「(母)国語」を学び直してみると、コンテキストを再定義する必要の多い現代において、特に人にしかできないことを教えてくれること間違いなしである。