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「人工知能学会は、外部知能の探索であって、ここは統計学会などでは無いのです!」と、親しくさせていただいている東京大学大学院教授の大澤先生が、二日酔いも手伝って血走った眼でシメの挨拶をされていたことを思い出す。
前回、軽く触れたが、人工知能やその周辺にあたえる影響や市場の今後を占いたければ、仏教を学んでおくと良いのでは、というお噺。
念を押しておくが宗教の中でどれが良い悪いという話ではなく、人工知能なら仏教に倣う方が良いのではというだけの話である。まあ、なんだか宗教というテーマになると話しづらい風潮とかがそもそも気持ち悪いのだが、まあ、念を押しておく。
人間の脳は、右脳と左脳の合議制らしい。これは、解剖学者である養老孟司氏の話。「昔のてんかん症に対する治療というのは相当ぶっ飛んでいて、右脳と左脳の繋がっているところを切っちゃうんです。僕はその措置をされた患者の動画を見たことがあるのだけど、指示されて外出を促されても、靴下が履けないんですね。まあ脳を切られているわけでそもそも理解すら怪しいでしょうし、そりゃそうだと感じるかもしれないが、よく見ると、右手は履かそうとしていて、左手は脱がそうとしている。だからいつまでたっても靴下が履けない。論理視野である左脳は指示されているからつかさどる右手は靴下を履こうとする。しかし、感情視野である右脳をつかさどる左手は、こんな状態で外出したくないと靴下を脱がそうとするんです。」
人工知能関連の役員をしている時に、仲間内で色々とこういった話をしていたのだが、氏のお話の通り合議ではあるが、ちょっと今の時代、論理側である左脳が勝ってると思うのだ。「月曜日だ、仕事いきたくない、でも行かなきゃ」で、人は、出社する。行きたくない右脳の感情は、論理の前に従う姿勢を見せる。
で、じゃあ、もう死にたいと考えるほど感情が高ぶり、出社を拒否するとき、それは右脳の感情視野が勝ったということなのかというと、これはなんとなくだが、腑に落ちない。何か、左脳・右脳だけでない第三の別の要素とも合議を図っているように感じる。それは「魂」ではないか。外国語でも似たような表現があるが、誰も見たことが無い「魂」というものは死んだ先の彼岸にあるふわっとした存在だけでなく、此岸に生きる我々にとって人格の核となるものとして理解されることばである。
「左脳と右脳」と「魂」による合議制であり、「魂」を侵されると人は自死や殺人へと駆り立てられる強い情動を産む。いきなり宗教チックになるのだが、ではこの「魂」というのは、宗教であり、怪しく、まともな人なら触れないものなのかと言われれば、先にも話したように、海外にも同じものを指す言葉があるのはなぜだろう。
ここからは、已己巳己の仮説なのだが「魂」は「言語」によってもたらせられる外と内を定義付けする社会性を帯びた感覚視野だと考えている。なので左脳と右脳は自身のみの判断なのだが、魂は、自身を自身と定義づける言語が積層して作られた「周りの人たちにとっての自身」であり、それが侵されることはとても強い怒りや悲しみを産み出す。よく、XなどのSNSで誹謗中傷され自死するニュースを見ると「たかだかそんなもので死ななくても」と思うのだが、言葉で自らが自らを定義し、蓄積してきた言語の塊である魂に侵食されるというのは、物理的な暴力などよりも深く傷つけられる。
「左脳(論理)」「右脳(感覚)」と「魂(言語)」という3要素が、人間の核である。そうした時に、口伝だった仏教の要素を現代より1000年以上前に新鮮なうちに取りまとめたのが唐である。この時の二大人気経典が「法華経(論理)」と「密教(感覚)」だった。これを持ち帰った空海と最澄は、当初日本において頻繁に経典の貸し借りをしていたとされている。
法華経を論理側であると話しているのは已己巳己だけかもしれないが、例えば法華経の中に「一念三千」という教えがある。AさんとBさん、二人の間に何かしらの念が行き来するとき、そこには3000のディメンションがあるというのだ。まず、AさんとBさんそれぞれが「十界」のどこかにいる。「六道(地獄界→餓鬼界→畜生界→修羅界→人界→天界)四聖(声聞界→縁覚界→菩薩界→仏界)」大事なことは、pであるということ。常にAさんもBもさんも、菩薩界にいたり、畜生界にいたりと「動いている」のだ。それぞれが今、どのステージにいるのか、10が2人なので100の可能性がある。
そして二人がいる空間が空間として成立した動的な状況は、10の力が働いて成立している「十如是(じゅうにょぜ)相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟」。これで1000通り。
さらに、その場は3つの環境要素にわかれる「三世間(さんせけん): 衆生世間(人々)×国土世間(環境・世界)×五蘊世間(心身)」なので3000通りとなる。なので、AさんからBさんに何か1つの念が伝わるときそこには3000のディメンションがその念を成立させているのであって、それはとても動的なのだという。
これらは例え話などが古く、それが意味不明(菩薩が地面から湧いてくるなど)な怪しさを出しているのだろうが、それは美術でいうところの「図像」という概念を理解していない浅はかな観点だ。その当時の表現は、その当時の常識や流行に則って理解しなくてはいけない。ボッティチェリのふくよかな裸婦を「デブな女」として見てしまう輩に、当時の美術を観る資格が無いのと同じことである。
それに比べて、密教はもう、感覚がすごい。曼荼羅で表現される様々な教えは、ここで表現できないのでググってもらうしか無いのだが、特に本物の曼荼羅を生で観るともう、言葉とか要らんよねというものにたくさん出会うし、その敬意や説明を聞くと腑に落ちるものもたくさんある。どう考えても感性であり、右脳的な働きを形にしたとしか思えない。
テクノロジーが進み、ハイテクになったところで、人間など対して代わりもしないし、使っているのは言語であって、それは「ら抜き言葉」とかそのレベルの微細な調整はあっても大きく変わることは無い。1つあるとすると、テクノロジーが進んだお陰で、マスが崩壊しニッチな個人個人の「言葉や念」が物理的な距離と時間の概念をぶち壊し誰にでも届くようになった。
そして、仏教の開祖である釈迦は、それまで修行僧の既得権益だった小乗仏教全盛時代に大乗仏教を広め、女性でも悪人でも仏になれると解いた。しかも、彼は王族の出であり、既得権益の最たる座にいながら、これを解いた。マスによる情報寡占というのは当に小乗仏教時代の人間模様と瓜二つである。2500年前と同じことが、この先、テクノロジーの基盤の上で繰り返される。当に、今の時代を生きる我々も、釈迦の手のひら、なのかもしれない。