既にそこにあるもの

※サムネイルの写真と本文は、全く関係ありません。

「落合陽一さんみたいな思考の仕方をされますね」と言われることが多い。光栄ではあるが、なんというか、已己巳己はもっと、冷蔵庫の余り物で美味いものを作るというのか、「視点の角度」は人より幅広いと思ってはいるが、そこまで大仰なものを企画したりすることはあまりないのにな、と常日頃から感じている。

そんなことを考えていたら、ふと、高校時代に好きだった現代芸術家、大竹伸朗のことを思い出した。

「既にそこにあるもの」のお噺。

高校時代、というより今もほとんど書籍が読めない已己巳己が、なんとなく気になり手にした本、それが「既にそこにあるもの」だった。

大竹伸朗は、段ボールなど道端のゴミ捨て場などにあるもので、アートを作る現代芸術家だ。彼にとってクリエイティブとは「既にそこにあるものとの共同作業」であるという。

已己巳己は、幼少時代ろくにおもちゃなど買ってもらえなかったのだが、父親は何故か「レゴブロック」だけは買い与えてくれた。もちろん頻繁に買ってもらえるわけではないので「街シリーズ」などを一回説明書どおりに作ったあとはバラバラにして、適当なブロックでそれ風の「飛行機」や「自動車」などを作って遊ぶ。

色もバラバラ、形もバラバラ。「だけど、こんな風に組み合わせたら、飛行機ぽくなるんじゃないか」という遊びが未だに已己巳己の思考プロセスそのものなのだ。「患者のバイタルデータ」と「銀行が保有するデータ」があれば「住宅ローンの疾病付き団信加入」と相関があるのではないか、などと思考がレゴブロックのようにつながっていく。

大竹伸朗は「既にそこにあるもの(と大竹伸朗)との共同作業」らしいが、已己巳己の場合は「既にそこにあるものと既にそこにあるものをどう活かすか」というところに違いがあって、おそらくそれは落合陽一も芸術家肌なので彼との違いでもあって「クリエイターとしての自分」は介在しない。已己巳己だからこその部分が全く無いのが一番気持ちいいクリエイティブだったりする。

前職で、昭和の名経営者と言われた園山征夫に2年ほど経営のイロハを叩き込まれた時期がある。「とある工場を見学させてもらっていたら、AとBの反目し合う部質を混ぜていくのだが、全然混ざる気配が無い。ただそこに触媒となる素材を数粒入れるとあっという間にAとBは混ざり合って、触媒は存在自体消えてなくなる。それにとても感動を覚えた。経営者もそうでなくてはいけない。」という話をされていたから、多分、已己巳己はアーティストタイプというよりビジネスタイプなのだろうなと思う。

ただ「既にそこにあるものと、既にそこにあるものをかけ合わせてナニカを生み出す」というのは、中々難しいことらしい。已己巳己自身も意識してやっているわけではないので、どうやれば良いのか聞かれても困るのが本音なのだが、1つだけ間違い無いことは「既にそこにあるもの」には、様々なディメンションがありそれを見つけるセンサーが重要だということ。

前職で橋にも棒にも引っかからず、もう誰もマネジメントできないというおじさんがいた。会社の合宿で朝から焼き鮭を10切れくらい食わされているところしか見たことがなかったが、とりあえず已己巳己の配属としてみた。その彼と会話していると、彼は「とにかくシンプルに真っ直ぐに暴走すること」を社会人一年目から光通信で叩き込まれているディメンションを公には出さないが根っこにあり、彼からすれば「並行処理でノロノロ作業している他のホワイトカラー側こそが使えない連中である」と見えてきた。そのため、新規事業を立ち上げ、「日本の製薬企業の半分くらいの社数に営業してきて下さい」などと、ひたすらに徹底的にシンプルな指示を出しやらせ続けていたら、数百名いる会社の中で目覚ましい結果を残し、なんと同業種最上位に位置する上場企業の副社長から声がかかり転職を果たした。今では、政府や業界の研究団体など小難しいところにも呼ばれて参加しているという。

これも「既にそこにあるもの(まあ、さっきの例は人だが)」には、様々なディメンションがあり、ツルツルな面もあればザラついてる面もあり、どこかとどこかは、おそらくきっと結びつくようにできてたりする。已己巳己の場合は、それらをどう結びつければ「金」を生むかがベースにあるから、やはりビジネス寄りなのだと思う。

瀬戸内国際芸術祭で、大竹の作品を見に行こうと島に渡るフェリーに揺られていると、ランニングシャツと短パンをはいたホームレスのような人が大雨にも関わらず甲板に立っていた。どことなく気になり横顔を覗きに行くと同じ島でアート展示していた会田誠だった。エログロのイメージしかなかった会田誠と共に島を歩き、彼が昭和40年会で休校となっていた小学校を舞台にした展示を見て回らせていただいたことを思い出した。そこは全くエログロ要素は無く、島の小学校そのものを活かした見ごたえのある作品ばかりだった。

https://openartlook.blog.fc2.com/blog-entry-320.html

この小学校も「既にそこにあるもの」。段ボールにせよ、小学校にせよ、何かそこにあるものだけを見つめ、自分が介在することで作品へと昇華させることができる大竹伸朗、会田誠や落合陽一のような存在は、やはり已己巳己とは全く違っていて、だからこそとっても惹かれる芸術家なのだと思う。

なんにせよ「無から産み出す」ことに囚われなくても、「既にそこにあるもの」から新しいものはいくらでも産みだせるんだよ。というお噺。

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