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一九九八年、若者が集う最先端の街と言えば、渋谷だった。
予備校や大学に通う学費を前払いし、新聞配達をして返すという新聞奨学生制度があり、
已己巳己は読売新聞の渋谷東営業所に配属された。
高校卒業して新聞配達というと、かわいそうな境遇と言われることも多いが、渋谷で一人暮らしできるというだけで、当時の自分からすればワクワクの方が大きかった。
新聞配達所の二階と三階、外階段から室内への入口は薄暗く、大量のよれた靴と壁にはレインコートが並んでいる。入口から続く廊下は薄暗く、大きくも無い建物には不自然なほど多くのドアが並ぶ。与えられた部屋は四畳半。
入口から続く独特の匂いが、汗や雨で至る所に増殖しているであろうカビ臭さであると分かったのは、配達をはじめてすぐの事だった。
大変だったね、辛かったね、とよく言われる。確かに相当辛かった。起きてこないメンバーを起こしに行くと、テーブルに「ごめんなさい」と書き置きを残し夜逃げしていた事もある。
しかし、辛さの中身は、体力とかそっち系の類では無い。
来る日も来る日も、新聞を配り続ける。もう、一生新聞を配って死ぬのだろうか、という先の見えない現実こそが、一番の苦しみなのだ。
新聞を配り、お金をもらい、ものを食べ、エネルギーをつけ、また新聞を配る。
新聞を配るために生きてるようなものだ。
それならそれが数ヶ月後の今だろうが、数十年後だろうが、死ぬまで配り続けるだけなら、早めに死のうかなとよく考えていた。
自殺した芸能人に向け「恵まれた人生で、自殺するほど何が辛かったのか」というコメントがよくあるが、自殺は、なにも辛さの真っ只中だけでやるものでも無いとつくづく感じる。「何も無いなら死のうかな」というのもきっと少なくないのだと思う。
まあ、今この歳になって考えれば、仕事をして、金を稼いで、また仕事をするのは当然の事なのだが、社会に出る準備など何もしてこなかった青二才にとっては、厳しすぎる現実だったのだ。
新聞配達員となり夏を向かえた頃、知り合いのツテでトラックドライバーに戻った父が、自家用車代わりのトラックで夏服を届けにきた。
部屋が狭いので、全ての服を置いておけないのだ。
大した量も無く、あっという間にその作業は終わり、父親の体たらくによる被害者だと思っていた自分は、世間話をする事もなければ、新聞配達しかしていないため話になるようなネタも無く、足早に部屋に戻ろうとした。
その時、父親が「お疲れ様。これで何か美味しいものでも食べて。」と、シワシワの二千円を手渡してきた。
当時、新聞奨学生は、学費返還をしながらも、月七万円くらいはお金が出ていたから、食事と部屋が付いている立場からするとそれなりにリッチな生活がおくれていた。
それもあり、二千円の額の少なさに驚き、少々軽蔑しつつ、父親の顔を見ると、父親の目に涙が溢れている。
「ありがとう。」と受け取ると、父はトラックに乗り帰っていった。
部屋に戻り、シワシワの二千円を見返す。父親は、新聞のチラシを配送する専業だった。運送は早朝の新聞と共に稼働する配達所のため真夜中に行われる。この二千円は、夜間の配達時に飲み物などを買うためのお金に違いなかった。シワの入り方で、トラックのどの辺りに置いていたお金かもわかる。
一人っ子の我が子を、満足に大学すら行かせてやれず、新聞配達員にさせてしまった。会社を潰してしまった。父として、男として、不甲斐なさと申し訳なさしかなかっただろう。面子も気にせず、出せる全財産を置いていったのだろう。
冬服の隙間には、タッパーに詰められた母の手料理がねじ込まれていた。普段渋谷で食べるものとは、比べ物にならないくらい質素で、色ばえもしない煮物の数々。
子を想う親の気持ちとは、こんなにも凄まじいものなのか。気づけば、四畳半のカビ臭い個室で、声を上げて泣いていた。
十八を過ぎて初めて「自分」ではなく「相手」側の視座に立てた瞬間だった。
ただ、それで一念発起して新聞配達と受験に命を燃やすほど現実は甘く無い。
新聞配達には慣れてきても、配達後の睡眠に打ち勝ち予備校に行くモチベーションなどあろうはずも無い。
しかしここでも、転機が訪れる。夏の終わり頃。
一平さんは、一つ年上のギターが上手く、上智大学を目指して二浪めの新聞奨学生だった。
高校時代、ギターを弾いていた事と、通っている予備校が同じでよく部屋に入り浸っていた。
その一平さんが、ネットでニュースを見せてくれた。
「早稲田大学で、中止となった学園祭を復活するために、一万人分の署名を学生が集め、大学側へ提出した。」らしい。
中学時代から、常に生徒会で文化祭やイベントの裏方をしていた自分は、一万人の署名を集める大変さも、過去の早稲田祭映像を見ればその裏方の優秀さも手に取るように感じることができた。
その日、何を考えたのか、ネットに載っていた大学有志の連絡先に電話をかけた。
「今、大隈講堂で打ち上げしてるからおいでよ!」まさかのお誘いに、慌てて着替え夜の早稲田に向かった。
大隈講堂前の広場では、ハッピを着た沢山の学生が円陣を組んで酒を飲んでいた。
当時は、まだまだ大学もおおらかで、大隈講堂前の広場でどれだけどんちゃん騒ぎをしても、怒られる事も無かったのだ。
「連絡ありがとう!まあ飲みなよ!」先輩が寄ってくる。「どこの学部?」なるほど、いきなり電話をかけてくるわけだから、早稲田の学生だと思われたのだろう。
「読売新聞の配達員です…。」
張り詰める空気。
「何をしにきたんですか?」
周囲が、急によそよそしい敬語に変わる。
「新聞奨学生をしていて、ニュースを聞いて、自分も早稲田で学園祭をやりたいと思って…。」
消え入りそうな声で伝えると、先輩がハッピを肩にかけてくれた。
「そうか、じゃあ、来年早稲田に入って、早稲田祭を復活してくれよな!」実は、後にわかる事なのだが、署名を出した次の日には、今年度も不開催という決定が出た。この日の打ち上げは、どちらかというと慰労会的ものだったのだ。
山下さん、佐野さん、伊田さん、色々な人に合格と早稲田祭の復活を誓い配達所に戻ると、次の日から十五時間以上勉強しても全く辛くなくなった。
「大学に行く人、それも早稲田なんて有名な大学に行く人は、生まれが違う」と思い込んでいた脳内の壁みたいなものが崩れた瞬間だった。
ただ、あまりに学力が低すぎ、新聞奨学生の半年では受験できるレベルにも達せず、二浪目は自宅で細々と勉強を続けた。
やればやるだけ、伸びれば伸びるだけ、自分の立ち位置がいかに低いところにあるのかが分かり、絶望を繰り返す日々。
奇声を上げたり、ちょっとした物音で親に怒鳴り散らすなど、激しい反抗期も重なって、高橋家はいつも静寂につつまれていた。
大した記憶も無いほど勉強だけした二浪目は、あっという間に過ぎ去り、受験シーズンが始まる。
模試の偏差値は六十後半となっていたので、ある程度のところは視野に入れられたと思うのだが、いかんせん金が無いので、志望校は二つだけにした。
日本大学芸術学部。早稲田大学第二文学部。共に、表現を学ぶところとしては有名でありつつ、学費が安いところだけを選んだ。
現役時代に、箸にも引っかからなかった日大芸術学部はいとも簡単に合格が出た。人生初の合格。発表を見た帰りは、それまでモノクロだった世界が、フルカラーに見えるものだ。街を行く全ての人に「ありがとう」と言いたくなる。
そして、本命。早稲田大学の合格発表の日。指定の時間に電話をかけると録音テープが合否を伝えてくれる。
緊張しながら受験番号を入力していく。
「受験番号、●●の方は…」ここでテープが切り替わる音がする。合格と不合格に、分かれる切り替えなのだろう。紙面や掲示板なら一息つきたいところだが、この仕組みではそうもいかない、息を呑み、次の言葉を待つ。
「…おめでとうございます、合格です。」
機械的で無機質な合格通知。何かの間違えかもしれないと三回ほど試す。
合格していた。自然と叫び声に近い奇声を発する。叫び声を聞きつけて、奥の部屋でじっとしてた両親がやってくる。「受かったよ!」
三人で大泣きしながら電話をもう一度聞く。三人とも電話では信じきれず、高田馬場の合格発表掲示板まで見に行き、間違いなく合格したことを確認し、三人で再度泣きながら抱き合った。
高校卒業から二年の空白を経て、已己巳己は早稲田大学へ進学することができた。