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早稲田アカデミー伊藤専務 | 已己巳己

早稲田アカデミー伊藤専務

※サムネイルの写真と本文は、全く関係ありません。

東証プライム上場の早稲田アカデミーの早稲田アカデミーは、関東で圧倒的に強い進学実績を誇る塾生規模4万5千を超える学習塾である。そのNo.2、専務である伊藤さんにお声掛けいただき久しぶりに飲んできた。

已己巳己と早稲田アカデミーの出会いは、1993年。当時、早稲田アカデミーは無名に近く進学実績と言えば山田義塾などが幅を効かせていたのだが、已己巳己が好きだった子が入塾したというので、それだけが目当てで入塾したのがきっかけだった。

中学生相手に朝まで授業をする深夜特訓、軍隊並みのしごきで有名だった夏期合宿などバリバリの体育会系で、先生も今考えると大学生のアルバイトが多く、相当エネルギッシュな校舎だった。

中3になり、その子への想いが冷めてしまった已己巳己は退塾してしまい、それからしばらく関係性が無くなっていたが、大学合格後にアルバイトを探していると塾講師はなかなか良い時給がもらえるとわかり、久しぶりに早稲田アカデミーを調べてみると最寄り駅前の校舎でも募集があったので、応募してみた。面接担当の校長はとてもいい人で即採用となったのだが、その直後他の校舎へ配属が決まったと聞き、新しい校長とうまくやっていけるか不安だったのだが、着任した校長は已己巳己が中学時代にお世話になっていた担任。已己巳己のことをよく覚えていてくださり、授業のイロハを教えていただいた。今、彼は早稲田アカデミーの執行役員だから、本当に良いこ゚縁にめぐまれていたのだろう。

已己巳己は、老人時代に「教える側に立って学ぶ」という勉強法を確立していた。家に大きなホワイトボードを買い、代ゼミの有名講師の授業をテープに録音しだれもいない部屋で授業をする。そうすると自然と知識や背景が身につくのだ。

その甲斐もあってか、はじまってすぐに人気講師となり、夏に欠員が出た大学受験クラスの担任を任された。中学生相手の授業ならまだしも、高校生、しかも受験生である高校3年生。流石に躊躇はあったが、こちらは代ゼミ四天王の授業を完コピしてきた経歴を持つ。あっという間に評判が拡がり、受け持ち半年で迎えたクラスは早稲アカ高校部でも屈指の合格率を叩き出した。

その数字を見てか、已己巳己は翌年から校舎を離れ本部所属になった。せっかく元担任である校長のもとのびのびとやっていたのにと不安もあったが、時給など待遇も増すというので移籍することに。その時、高校部の責任者を務めていたのが、今の伊藤専務だった。

伊藤さんは、東大出身の理数系なので、数字にめっぽう強く視野が広いので、恐怖におののく社員も多かったが、已己巳己からすると好奇心が強く、しっかりやっている人にはしっかり優しい人だという印象だった。志木・池袋・渋谷・国分寺・高円寺と当時あったほとんどの校舎に呼ばれ授業をし、当時は、志木に住んでいたのだが志木出発→国分寺3時間→1時間で移動→志木3時間→1時間で移動→国分寺3時間→志木帰宅という滅茶苦茶なスケジュールで講習会や合宿で授業をしていた。合格実績も出し人気講師であったのも、伊藤さんの受けが良かった要因だったのかもしれない。

早稲アカの夏期合宿はホテルに一週間ほど生徒を閉じ込めひたすら授業をおこなうのだが、最終日前日に先生から生徒へキャンプファイヤーを行う。キャンプファイヤーとは言うが、ほぼ誰も火など見ておらず、ステージで先生が大騒ぎするイベントで大盛り上がりしたり、打ち上げ花火があったりと、体育会系進学塾の総本山のようなイベントだった。

已己巳己は当時早稲田祭の代表もしていたので、イベントと言えばということでキャンプファイヤーの責任者になった。こちらも、代表としての自負があるので安請け合いしたのだが、実は高校部は小中に比べ規模も小さく、生徒も年頃なので、昨年度は全く盛り上がらず、「早稲アカクイズ〜!◯の人は左に、✕の人は右に!」とやったところ、参加者全員が下を向いて動かなかったという地獄絵図だったらしく、今年已己巳己にやらせてみて、だめなら高校部はキャンプファイヤーをやめようという話が出ていたらしい。

そんな状況なので、已己巳己が合宿参加の先生がたに「誰か音楽ができるとか得意なものがお有りな先生いますか?」と聞いたところ誰も挙手しない始末。若気のいたりで「だったら俺一人でやる!」と、300人くらいの生徒相手に已己巳己一人で1時間、ステージに立つことにした。

合宿が行われる志賀高原に移動し、キャンプファイヤーの開催場所を見に行く。小中は特設ステージが組まれるくらいなので、そんなイメージをしていたのだが、高校部は人数も少なく予算も無いため、ステージはスキーゴンドラの足場のコンクリ塊、証明は軽トラのヘッドライト、音響は軽トラの上に石焼き芋的な小さなモノラルスピーカー。打ち上げ花火も無く、ドラゴンといった小さな市販の花火があるだけ。武器がこれしかない。

ホテルの中を探索し使えそうなものを探すが、どうしても音響と照明が弱い。この2つはイベントの生命線である。弱いと「そもそも何をしてるかわからない」のである。困惑していると、伊藤さんが「ホテルオーナーが山の下にある倉庫に機材があるから使って良いと言われた」と話をつけてくれ、已己巳己と二人でギター・アンプなどをそこから調達し、なんとかイベントの体裁を作り上げていく。

そして迎えたキャンプファイヤー。詳細は省くが、とんでもなく盛り上がり、最後、已己巳己が生徒の中にダイブし、胴上げされ、全員で号泣するという伝説の一夜となった。キャンプファイヤー後の全体会で表彰され、金一封まで頂けた。

そういったこともあり、淑徳高校や神田女学院といった私立高校での非常勤講師や、已己巳己が「春にも合宿したい!」と駆け寄り、已己巳己の早大英語春期合宿なども開催させてもらったりと伊藤さんと色々な取組をしてきた。

その後、已己巳己は別の予備校に移籍し、早稲アカとのつながりがなくなるのだが、2010年に務めていた会社を辞め、次はなんの仕事をしようかと久しぶりに挨拶に伺った伊藤さんから、医学部予備校野田クルゼを紹介いただく。歴史ある医学部予備校を先代の社長が買収したが、赤字が続きのれんの償却もできていないという。

そこで、野田クルゼのマーケティングを支援するお仕事をいただき、サイトを変えたり、ノベルティを工夫したり、入学説明資料をリデザインしたりと全方位的に施策を打ち、3年後、野田クルゼは席が足りず満員御礼で締め切るほどの塾生数となった。その後も増床を続け、無事、早稲アカものれん代も償却できた。

その流れから、早稲アカのIRパンフレット、採用パンフレット、新規サービスのパンフレット、新ホームページ導入時のコンサルティング、卒業生パーティの企画・運営、社内報の作成など、授業とは違う、色々なお仕事に挑戦させていただくことができた。

最近は、月1回程度野田クルゼのマーケティング会議にお呼ばれするくらいにとどめていたが、已己巳己が新天地とする高卒就活支援とはターゲットが被っているのもあり色々なネットワークをご紹介いただいたので、またお付き合いが増えるかもしれない。(それよりも、ゴルフのお付き合いが増える可能性のほうが大だが汗)

已己巳己が、社会に出てイロハを教わったのが早稲田アカデミーなのは間違い無いし、伊藤専務は「授業」単体ではなく「授業だけでないサービス全般」のあり方を教えてくれた(というか、若造にもたくさんのチャンスをくれた)。間違いなく、今の已己巳己がある、恩人のお一人である。

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